藪内流の露路のはなし。
少し間が空いてしまったけれど藪内流の露路について知っている少しばかりのことを書き記していこうと思います。
藪内流の御家元、燕庵は京都七条西洞院正面にございまして風格ある門が見て取れます。
ここは寛永の初めに西本願寺良如上人の懇招によって拝領し、移築されて以来露路も含めて
同様に移されてものと考えられています。
庭石や井戸などもそうで代々の御家元がその雰囲気をそのままに守り続けているのです。
長く変わらぬ茶の露路というのは珍しいものだそうでその形式も同様に稀なものになっているそうです。
燕庵にも文化年間の露路の古図がのこっておりその図と今残されている露路の図の配置は全く変わらぬものなのだそうで。
また天明六年(1786年)にだされた「拾遺都名所図会」にある「藪内茶亭庭中之図」なる鳥瞰図も全く同じで、、、
このあたりにも引き継いできたものをしっかりと守るという流儀(古儀)をしかりとふまえた御家元ばかりなのだと安心します。
今回は玄関からこの藪内流家元燕庵を追っていきます。
まず西洞院正面に面した風格ある表門をくぐると御影石の切り石を引いた簡素な延段が内玄関に向かっており、
この延段から直角にひかれた畳石の二枚の伝いが玄関と水屋屋敷につながっています。
廻りの木々はカシ、アオキ、チャ、ヒサカキなど落ち着いた木々が続きます。
どちらかといえば一昔、二昔前の茶庭にしては簡素でよくある佇まいであったのではないか、という研究者の記述もあり。
あまり派手な風合いは好まなかったようです。
燕庵の露路は三つに分かれるとともにそれらがうまく調和を取り合って広い意味での茶席燕庵を形成している。そうです。
絹熈堂(しゅうきどう)とよばれる広間は南側にその露路を持ち、広間にふさわしい大ぶりな飛び石をいくつも配置しています。
広縁に添って五条橋杭を転用したと伝えられる円星宿型の手水鉢が添えられその後ろには見事な西ノ屋型の石灯籠が鎮座しています。
そして正面には春日型石灯籠が立っておりこの露路を高さや距離感などの面からも作り出しています。
この露路のさらに南側は茶室燕庵の露路となりますがその境は高さ五尺をこす「松明垣」が連なり壮観です。
これらのお写真は流石に載せられませんが、NHKテキストなどに沢山燕庵のお庭のお写真は乗っております。
ぜひそちらをご覧ください^^
藪内流の御家元、燕庵は京都七条西洞院正面にございまして風格ある門が見て取れます。
ここは寛永の初めに西本願寺良如上人の懇招によって拝領し、移築されて以来露路も含めて
同様に移されてものと考えられています。
庭石や井戸などもそうで代々の御家元がその雰囲気をそのままに守り続けているのです。
長く変わらぬ茶の露路というのは珍しいものだそうでその形式も同様に稀なものになっているそうです。
燕庵にも文化年間の露路の古図がのこっておりその図と今残されている露路の図の配置は全く変わらぬものなのだそうで。
また天明六年(1786年)にだされた「拾遺都名所図会」にある「藪内茶亭庭中之図」なる鳥瞰図も全く同じで、、、
このあたりにも引き継いできたものをしっかりと守るという流儀(古儀)をしかりとふまえた御家元ばかりなのだと安心します。
今回は玄関からこの藪内流家元燕庵を追っていきます。
まず西洞院正面に面した風格ある表門をくぐると御影石の切り石を引いた簡素な延段が内玄関に向かっており、
この延段から直角にひかれた畳石の二枚の伝いが玄関と水屋屋敷につながっています。
廻りの木々はカシ、アオキ、チャ、ヒサカキなど落ち着いた木々が続きます。
どちらかといえば一昔、二昔前の茶庭にしては簡素でよくある佇まいであったのではないか、という研究者の記述もあり。
あまり派手な風合いは好まなかったようです。
燕庵の露路は三つに分かれるとともにそれらがうまく調和を取り合って広い意味での茶席燕庵を形成している。そうです。
絹熈堂(しゅうきどう)とよばれる広間は南側にその露路を持ち、広間にふさわしい大ぶりな飛び石をいくつも配置しています。
広縁に添って五条橋杭を転用したと伝えられる円星宿型の手水鉢が添えられその後ろには見事な西ノ屋型の石灯籠が鎮座しています。
そして正面には春日型石灯籠が立っておりこの露路を高さや距離感などの面からも作り出しています。
この露路のさらに南側は茶室燕庵の露路となりますがその境は高さ五尺をこす「松明垣」が連なり壮観です。
これらのお写真は流石に載せられませんが、NHKテキストなどに沢山燕庵のお庭のお写真は乗っております。
ぜひそちらをご覧ください^^
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